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帯広百年記念館は、博物館活動として十勝・帯広の考古資料の収集・保管・調査研究活動を行っていますが、遺跡の保存保護や緊急発掘調査など帯広市域の埋蔵文化財に関することも担っています。これらの成果は、百年記念館常設展示室での実物資料やパネルでの展示・解説、埋蔵文化財センターでの展示・収蔵などを通して情報発信に努めています。 このページで紹介する写真は、平成23年度に「収蔵考古資料のデジタル化事業」として取り組んだ成果です。これらの資料は、百年記念館常設展示室および埋蔵文化財センターで見学・観察することが出来ます。 |
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縄文土器 縄文土器は、縄文時代に使われた土器のことで、縄の文様(縄文)が付けられ土器と説明されることが多いのですが、初期の土器には「縄文」がないのも多く、北海道では縄文時代以降も「縄文」が付けられた土器が使われていました。 今のところ日本列島で最も古い土器は、およそ1万6000年前の年代が示されており、土器の出現をもって『縄文時代』の始まりとみなす考え方が一般的です。北海道で最古の土器は、平成15年に帯広市大正3遺跡の発掘調査で出土した約1万4000年前のものです。なお、縄文時代の終末は、北部九州で水田稲作が開始した2300年前ころとされ、これ以後は『弥生時代』となり、使用された土器は「弥生(式)土器」と呼ばれますが、稲作が伝わらなかった北海道では『続縄文時代』という縄文時代と同様の文化が営まれ続きました。 土器の形や文様の特徴は、年代(時期)によって、一種の流行のように変化を示すことが知られています。考古学では、この変化をもとにおよそ1万年の間続いた縄文時代を大きく6つの時期(草創期=〜1万1千年前)/早期(〜7000年前)/前期(〜5500年前)/中期(〜4000年前)/後期(〜3000年前)/晩期)に区分して考えています。また、土器の特徴などを指標として、□□式土器などという「土器型式」が設定され、時期や年代を知るものさしとして使用されています。 ※年代の表記は、近年では放射性炭素年代測定値をより高い精度で較正した値を用いるようになっており、このページでも較正年代を用いています。 |
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草創期の土器 | ||||||||
日本列島では約1万6000千年前、道内では帯広市大正3遺跡から出土した約1万4000年前の土器が最古とされています。 大正3遺跡の土器(右の写真)は、底が丸く、先端に乳房状の突起がつく形で、“爪形文”と呼ばれる爪でつけた文様に特徴がある土器群で、本州の東北地方から中部地方にかけての、この時期の土器群と共通した特徴をもっています。 |
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早期前半の土器(1) | ||||||||
およそ1万年前〜8500年前に道東地域を中心「暁(あかつき)式土器」と呼ばれる平底の土器が作られました。土器の底面に「ホタテ貝」のあとが明瞭に残されたものがあるのも、この土器の特徴です。「暁式」という型式名は、1961年に帯広市暁遺跡から見つかった土器を指標とし、明石博志氏によって命名されました。この土器を出土する十勝管内のおもな遺跡は、浦幌町平和・下頃辺、池田町池田3、帯広市暁・八千代A・大正8の各遺跡があり、とくに八千代A遺跡ではこの土器を伴う大集落遺跡が発掘調査されました。 このタイプの初期の土器には文様はほとんど無く、表面を縦方向に植物質の道具で擦ったようなあと(条痕)が付く程度です。新しいタイプの土器はTa−d火山灰(約8000年前降下)より上層から出土するものが多く、絡条体(らくじょうたい)と呼ばれる植物質の軸によった糸(撚糸)を巻きつけた道具による文様で土器を装飾するようになります。 |
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早期前半の土器(2) | ||||||||
「東釧路T式土器」は筒形・薄手で、土器の表面に繊維質の工具で横方向に擦ったあとが残された特徴をもつグループです。同じような特徴の土器は北海道西南部にも分布します。十勝でこの土器がまとまって出土した遺跡には、帯広市八千代A、清水町上清水4、豊頃町高木1、大樹町下大樹遺跡などがあります。 「石刃鏃文化」は8500年〜8000年前頃に、北海道東北部に見られる“石刃鏃”という特殊な鏃に特徴をもつ文化で、アムール川流域と関係があると考えられています。このステージの土器は「女満別式」と呼ばれる型押文(スタンプ文)に特徴がある土器、絡条体圧痕文に特徴がある「浦幌式」などが型式設定されています。十勝では帯広市大正3・7、浦幌町共栄B・新吉野台細石器遺跡などが著名です。 |
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早期後半の土器 | ||||||||
およそ8000年前になると、「東釧路U式」と呼ばれる縄文が多用された土器が道内各地に分布するようになります。この土器は縄文のほかに、押引き文や貼付け文、刺突文など多様な文様が組み合わさるのが特徴です。このグループの土器は帯広市大正8遺跡からまとまって出土しました。U式の形や文様が変化して「東釧路V式土器」へ移行し、さらに表面に細い粘土ヒモをいく段にも貼り付け、その間に細かな縄文を施文した「中茶路(なかちゃろ)式」土器へと変遷します。東釧路W式土器は体部の縄文が羽状に施文されることに特徴があります。 なお、「東釧路式」の名称は釧路市東釧路貝塚でこのタイプの土器が層位的にまとまって出土したことに由来しています。 |
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前期〜中期の土器 | ||||||||
およそ6500年前(前期前半)の土器は「綱文(つなもん)式」と呼ばれる丸底で太い縄文が付けられた土器が作られるようになりました。6000年前頃(前期後半)になると、再び土器の底は平底となり筒形に近いかたちになります。このグループの土器は帯広市宮本遺跡の発掘調査でまとまって出土したことから「宮本式」という型式名が設定されています。 中期になると、土器に突起が付けられたり、粘土ヒモの貼付けによって表面が装飾された「モコト式」土器が作られるようになります。その後、「北筒(ほくとう)式」と呼ばれる筒形器形で円形刺突文に特徴があるグループが広がりますが、良好な復元個体は当市にはありません。 |
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晩期の土器 | ||||||||
「北筒式」以降の後期中葉〜晩期前半は、突瘤文や沈線文を主体とする土器が作られます。さらに晩期後半になると「幣舞式」と呼ばれる縄線文(縄を押し付けた文様)や沈線文を特徴とする土器が作られるようになります。しかし、帯広市内の遺跡ではこれらの良好な復元個体はきわめて少ないのが現状です。 右の土器は大型の浅鉢で、突起部に同心円状の縄線文が施文されています(幣舞式/大正7遺跡)。 |
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