十勝の先史時代  

 今から約3万年前、十勝に人が住みはじめた旧石器時代から、縄文時代、続縄文時代を経て約1千年前にはじまる擦文時代までの人びとの暮らしを、発掘調査で出土した土器や石器、解説パネルなどを用いて紹介しています。  もっとくわしく⇒十勝平野の人類史3万年のページ 

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 旧石器の時代(約3万年前~1万1千年前) 
 人びとが活動していたあとを残す場所を遺跡といいます。
十勝そして北海道では、今のところ3万年前くらいまでさかのぼって見つかっています。





※北海道の旧石器時代から縄文時代への移行のようすは、はっきりとわかっていません。そのため、このページでは1万4千年前から1万1千年前までの期間を重複させています。
■氷期に暮らした人びと
 土器が使われる前の時代を旧石器時代と呼んでいます。この時代の遺跡は十勝ではおよそ100ヵ所見つかっており、もっとも古い遺跡は3万年くらい前に残されたと考えられています。
旧石器人の見た風景 8万年前ころから始まる寒冷化は、海水面を低くし、北海道は大陸からのびる半島の一部になりました。海水面は今より120mくらい低かったようです。
 氷期の中でもっとも寒かったころの十勝平野は、年平均気温が今より8℃前後低く、針葉樹がまばらに生える草原状の景観だったと想像されています。マンモスやバイソンなどの北方の動物たちは、陸づたいで北海道へやってきました。
旧石器時代の生活 寒冷な環境では、食料にできる植物がとても少ないことから、このころの人びとは、狩りで得た獲物をおもな食料にしていたと考えられます。
 遺跡から見つかる石器には、槍の先、毛皮や革の加工に使われる掻器
(そうき)、切ったり削ったりする削器(さっき)、骨や角の加工に使われることの多い彫器(ちょうき)、形のそろった縦に長い石刃(せきじん)や細石刃(さいせきじん)、石斧などがあります。ほかに、赤や黒の顔料のもとになった鉱物も見つかっています。 
 
最寒冷期の自然環境
■黒曜石は語る
 黒曜石(十勝石)は、火山活動でできた天然のガラスで、十勝では上士幌町三股付近がその産地として知られています。この石は、割っただけで鋭い刃ができ、加工もしやすいことから、石器の材料にとても適していました。
 十勝の旧石器時代の遺跡からは、黒曜石で作った石器が数多く出土します。化学分析によって、遠軽町白滝や置戸など、十勝以外の産地の黒曜石が持ち込まれていたこともわかっています。
 
 
 旧石器時代の石器作り工場(帯広市暁遺跡) 
■暁遺跡
 帯広市西8条南12丁目付近にある暁(あかつき)遺跡は、1959(昭和34)年に、地元の中学生によって発見され、昭和36年から6回の発掘調査が行われました。
 初期の調査では、当時、十勝でもっとも古い土器が発見された遺跡として注目されましたが、その後の調査で、さらに下層から石器類がたくさん発掘され、旧石器時代の大きな遺跡としても注目されるようになりました。
 今からおよそ1万6千年前、旧石器時代の人びとは、この場所でいろいろな石器を作り、その石器を使って骨・角や皮を加工するといった作業をしていたと考えられます。
 

スポット12の細石刃
◀暁遺跡からは8,000点を超す細石刃と呼ばれる石器が見つかっています。細石刃を埋め込んだ道具作りや、その修理がこの場所で長い間行われたようすが想像できます。 
スポット12 発掘調査で出土した石器の広がりを見ると、とくに密集する範囲が22ヵ所ありました。この範囲を中心に石器作りが行われていたことを物語っています。22ヵ所の密集範囲のうち、スポット12と呼ばれた15×17mの範囲からは、1,900点の細石刃をはじめとし、掻器や彫器などの加工具、細石刃核(細石刃が剥されたあとの付いた石器)、剥片(かけら)など、5,700点あまりが見つかりました。この石器のほとんどはケース内に展示しています。  展示パネル  
細石刃

細石刃核
■細石刃
 長さが数㎝、幅が1㎝に満たない、薄く細長い石器を細石刃
(さいせきじん)といいます。細石刃はツノの先などで、細石刃核から押し剥して作られました。多くはナイフや槍の部品として、動物の骨などの柄の側縁に埋め込んで使われたと考えられます。2万2千年前以降、日本列島を含む東アジアからアラスカにかけて広い地域に普及したことが知られています。 
 
 細石刃の装着(想像図)
 北海道最古の土器(約1万4千年前)   
 2003(平成15)年に行われた帯広市大正3遺跡の発掘調査は、北海道の考古学にとって大きな出来事になりました。縄文時代草創期と呼ばれる、1万1千年前をさかのぼる時期の土器が見つかったのです。この土器は、それまで土器が見つかることのなかった黄色い粘土層から出てきたので、層位的にも古くなることは明らかでした。年代測定をしたところ、1万4千年前の土器という結果が示され、北海道では最も古い土器であることが確かめられました。 
■土器の特徴
 粘土を焼いて作った器のことを土器といいます。土器の形や作り方、模様は地域や時期によってさまざまなので、年代や文化の系統を考えるうえでの大きな手がかりとなります。
 大正3遺跡の土器の多くは、表面を指先でつまんだり、はさんだり、ひねったりして模様をつけているので、爪のあとがたくさん付いています。このようなあとが見られる草創期の土器は「爪形文土器」と呼ばれています。
 土器の底は丸く、中央に突起がついています。これに似た形は本州の東北地方から中部地方にかけての草創期の土器にも見られます。
 また、土器に残っていたおこげの分析から、海の生き物を煮炊きしたことが明らかにされました。
※日欧の研究チームによって、土器に付いた炭化物(おこげ)の分析が新たに行われ、『海産物を煮炊きした土器』としては世界最古という結果が2013年4月11日付の英国科学雑誌『ネイチャー』電子版に発表され大きな話題となりました。

■遺跡のようす
 大正3遺跡は段丘の上で見つかりましたが、草創期の土器が残された当時は河原のような場所だったと考えられています。
 遺跡からは石器や剥片も多量に見つかっており、石鏃(やじり)などの石器作りが盛んに行われていたことがうかがえます。石器の作り方は北海道の旧石器人よりも、本州の草創期人に近く、土器の特徴とも合わせ、この遺跡は本州からの移民かその子孫によって残されたという説も出されています。

謎の4千年 大正3遺跡が残されたころから1万年前までの文化の移り変わりについては、まだよくわかっていません。このころのようすがもう少し明らかになれば、大正3遺跡を残した人びとのことについて、多くのことがさらにわかるでしょう。
 
草創期の土器
草創期の土器に伴った石器
 縄文の時代(約1万4千年前~2千5百年前)  
 北海道の縄文時代の遺跡は、気候や植生が現在とほぼ同じになった9千年ほど前から、その数がぐっと増えます。また、縄文時代になって新しく加わった道具を見ると、狩猟だけでなく、漁労や植物採集も盛んに行われていたことが分かります。
 縄文時代は6つの時期(草創期、早期、前期、中期、後期、晩期)に区切られています。草創期が氷期(更新世)の終わりころ、早期からは氷期が終わった1万1千年前以降(完新世)の時期にあたります。

縄文時代の土器
 土器は、皮や繊維で作られた容器にくらべ、火に強く、腐ることもないため、煮炊きや貯蔵に適した道具として広まったと考えられています。
 氷期が終わった1万年前ころから作られるようになった十勝の土器は、1万4千年前ころの土器とは違い、底が平らで模様も簡素です。底が平らな土器は7千年前ころまで作られ続け、一時的に丸い底やとがった底になりますが、6千年前ころから再び平らな底になります。縄の模様は8千年前ころから見られるようになり、1千4百年前ころまで用いられ続けます。
 土器が登場してしばらくは、底の深い土器ばかり作られますが、3千5百年前ころからは、皿や注ぎ口の付いた壺のような土器なども作られるようになりました。縄文土器ギャラリーはこちら

縄文時代の石器
狩と漁の道具 矢柄の先端に付ける石鏃は、土器作りが始まったころから作られるようになるため、弓矢の利用も土器作りと同じころに始まったと考えられています。石槍
(いしやり)は銛(もり)としても利用されていました。両端を打ち欠いた石は、石錘(せきすい)と呼ばれ、漁網のおもりと考えられています。
ものを加工する道具 つまみの付いたナイフは、この時代特有の石器で、つまみにヒモを結んで携行することを意識して作られたようです。縁辺に刃を作り出しただけの削器
(さっき)もナイフとして使われていました。石斧は木を切ったり加工する、掻器(そうき)は皮をなめす、錐は穴をあける、砥石は石斧や骨角製の道具などを磨く道具と考えられています。
調理に用いられる道具 木の実などをすりつぶすための道具として、手に持ちやすい形の石を選んだり加工したりして使われたすり石や、大きくて平らな石皿などがあります。
 

縄文土器の移り変わり



縄文時代の石器
 縄文人の生活  
 縄文人の食べものカレンダーからは、狩りや漁、木の実や貝類などの採集を季節に応じて行っていたようすがわかります。遺跡からは、食べものを手に入れることだけでなく、祭りや祈りといった行為が社会生活をする上で欠かせないものだったようすもうかがえます。身体を彩る装飾品にもさまざまな素材や形が見られます。
食べる 十勝の縄文時代の遺跡からは、エゾシカ、ヒグマ、ウサギ、タヌキなどの動物、ワシ類などの鳥、サケ、マス、イトウ、ウグイ、チョウザメなどの魚、クルミやドングリ、ヤマブドウなどの木の実が見つかっています。
住む 縄文人の住まいは多くの場合、地面に穴を掘って床を整え、屋根には土またはヨシや木の皮などをかぶせて作られた「竪穴式住居」と呼ばれる住居だったと考えられています。床には炉や、屋根を支える柱の跡が残る例がよく見られます。最近では穴を掘らない「平地式」の住居も発見されており、住まいのスタイルがさまざまだったことがわかってきました。
願う 土を焼いて作った縄文時代の人形を土偶
(どぐう)といいます。写実的なものから抽象的なものまでありますが、ほとんどは女性をあらわしているようで、赤ちゃんの誕生を願って作られたと考えられる例も少なくありません。十勝では7千年前ころから作られていたようです。
葬る お墓は一般的には地面に穴を掘って遺体を安置し、その後で埋め戻されたものと考えられています。多くの場合、遺体はひざを抱えるような形で埋葬されていたようです。お墓の中に赤い粉を敷いたり、たくさんの副葬品を入れる例も見られます。
装う 縄文時代には、きれいな石や漆、焼き物などを使った装身具がたくさん作られるようになります。芽室町小林遺跡からは、7千年前の耳飾りが見つかっていおり、日本各地から同じ形のものが見つかっています。
 

 縄文人の生活コーナー
 9千年前のムラ (帯広市八千代A遺跡)  発掘された八千代A遺跡
 八千代A遺跡の発掘調査では、9千年前ころの竪穴式住居跡が多数見つかりました。
 この時期のものとしては、全国的にもあまり例がない大規模な集落遺跡として知られています。右写真の丸い穴が竪穴式住居の跡です。
 
竪穴集落の出現
 八千代A遺跡は日高山脈のふもとにある遺跡で、1985(昭和60)年から4年間の発掘調査が行われました。湿地に面した丘の上からは105軒の竪穴式住居の跡が見つかり、土器や石器なども多数残されていました。当時の人びとにとって、とても暮らしやすい場所だったと推測されます。
 ただし、多くの住居跡が残されているのは、数百年の間に何度も建て替えられた結果で、同時に利用されていた住居は数軒程度、集落の人口は数十人くらいだったと思われます。
 
竪穴式住居 円形の竪穴式住居がほとんどで、大きさは直径4~5mが普通サイズですが、8mを超す大型のものもあります。普通サイズの住居では、4~6人くらいが暮らすことができたと思われます。
 炉は床の真ん中あたりに配置され、その中からはクルミやドングリ、キハダ、ヤマブドウなどが見つかっています。炉のそばに、大きな石が残されたままの住居跡もありました。作業台として使われていたようです。
 
 
竪穴式住居跡
 
暁式土器

土器の底 
焼き物 この遺跡から見つかった平底の土器は「暁(あかつき)式」と呼ばれています。この土器は表面にあまり模様をつけず、底にホタテ貝のあとが付くのが特徴です。
 クマの頭を模造したと思われる焼き物も見つかっています。動物をかたどったものとしては、北海道で最古の資料になります。
装身具 住居からはネックレスの玉や、ペンダントなどの装身具も発見されました。北海道の外から持ち込まれたと思われるコハクの玉も見つかっています。また、ネックレスの玉には、穴をあける途中で作業を止めているものもありました。住居の中で玉作りが行われていたことが想像されます。
 

クマの頭部 

装身具類
 続縄文・擦文の時代 (2千5百年前~8百年前)  
■続縄文の時代
 約3千年前、九州北部に大陸から稲作が伝わり弥生時代が始まります。稲作はその後5百年くらいをかけて、本州の北端まで広がったと考えられています。青銅器や鉄器も弥生時代になって使われるようになりました。
 北海道では、この時期に稲作が伝わらなかったこともあり、続縄文時代と呼ばれています。石器から鉄器への交替は、この時代の後半から本格的に始まったと考えられています。
続縄文時代の土器 縄文時代の終わりころからこの時代の前半にかけては、北海道の西と東とでは形や模様の違う土器が使われていました。それが後半になると、北海道全域で「後北
(こうほく)式」と呼ばれる土器にまとまり、東北地方の北部まで分布が広がりました。

■擦文の時代
 7世紀の後半くらいから、北海道は擦文
(さつもん)時代と呼ばれる時代に入ります。擦文という呼び名は、木の板で擦ったあとが土器の表面にみられることから名付けられました。この時代になると、鉄器の入手が容易になったようで、石器はまもなく姿を消しました。食べ物はこれまで同様、おもに狩りや漁、採集によって手に入れていましたが、農耕も少しばかり行われていたようです。十勝の遺跡でも、炭化したキビやオオムギなどが発見されています。
擦文時代の土器 この時代の土器の模様は、刻線で描かれており、縄の模様はなくなります。形や作りは、「土師器
(はじき)」と呼ばれる本州の土器の影響を受けています。この時代の終わりころになると、吊り耳がついた内耳土鍋と呼ばれる土器が使われるようになりますが、これを最後に北海道の土器作りの伝統は途絶えてしまいました。
擦文時代の生活 住居もまた、本州の影響を受け、四角い形で床の中央に炉、片方の壁にカマドが設置されたものでした。ふいご(火力を上げるための送風装置)を使った鍛冶も行われていました。
 
 
続縄文・擦文の時代コーナー

後北式土器

擦文土器
コラム  チャシ

 アイヌ文化の時期になると、土器や竪穴式住居は作られなくなります。その一方で、海岸や河川沿いの崖や山の上に溝(壕=ごう と呼ばれる)を巡らせたチャシという施設が造られるようになりました。チャシは儀式や戦いのための砦(とりで)など、非日常的な活動に利用されたと考えられています。
 十勝では70ヵ所のチャシが見つかっており、このうち、陸別町のユクエピラチャシや浦幌町のオタフンベチャシは、国指定史跡になっています。
 ユクエピラチャシは発掘調査によって、およそ450年前の施設であることがわかりました。

ユクエピラチャシ