発掘された十勝の遺跡 
十勝平野の人類史3万年
    
このページは、2012年8月4日から9月30日に開催した特別企画展『発掘された十勝の遺跡』展示解説書を編集したものです。なお、冊子はミュージアムショップで販売しています。  
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十勝考古学のあゆみ 
旧石器時代 旧石器時代とは/最古の石器群/マンモスがいたころ/旧石器時代の終末 
縄文時代 縄文時代とは/土器の出現/集落の出現/石刃鏃文化の進出/縄文文化の展開/祭り・祈り・まじない 
続縄文時代  擦文時代  アイヌ文化期 資料編 
     
十勝考古学のあゆみ
 
◆考古学とは モノから過去の人類の歴史を明らかにするのが考古学です。ここでいうモノとは、遺跡やそこから見つかる住居や墓の跡などの遺構、土器や石器などの遺物です。近年では、環境の歴史や年代測定をはじめとする理化学的分析などを取り入れた総合的な研究がすすめられています。 
◆松浦武四郎の記録 十勝の遺跡をを最初に文献に記したのは、幕末の探検家・松浦武四郎です。彼は、1858(安政5年に十勝内陸を踏査した時の記録「十勝日誌」に、芽室町で矢じりや石斧を拾ったこと、豊頃町礼文内の丘の上に30の竪穴住居のあとがくぼみとして残っていることなどを記述しています。またこの文中で「トカチ石」という名称が記載されています。
◆初期の考古学調査 戦前から戦後にかけては、十勝管内の小・中学校で教鞭をとるかたわら、郷土史研究に力を注いだ齋藤米太郎が活躍しました。彼は浦幌町の遺跡から発見された土器と石器を1943(昭和18)年に考古学専門誌に発表しました。
 1950(昭和25)年には、齋藤の報告によって学会から注目されていた浦幌町新吉野台細石器遺跡の発掘が行われ、出土品はシベリア方面と関係がある重要な性格のものであることなどが明らかとされました。その後、1959年に浦幌町下頃辺遺跡から道内最古の土器が出土、1965(昭和40)年には明石博志による帯広市暁遺跡の発掘調査で、下頃辺出土のものより古い土器が報告されるなど、十勝の考古学資料は学会の注目を浴びるようになりました。
◆大規模発掘はじまる 昭和40年代になると、工事などで遺跡が消滅してしまう前に記録を残すための緊急発掘が浦幌町域ではじまりました。昭和50年代前半には、管内の若手考古学研究者が中心となって「十勝川流域史研究会」が設立され、彼らが行った分布調査により、多くの遺跡の所在が明らかとされました。50年代後半からは、十勝の各地で大規模な緊急発掘が始まりました。この結果、数多くの新たな発見がもたらされ、十勝の先史時代の様相が解明されてきた一方、貴重な遺跡が数多く失われたのも事実です。
 
「石器を発掘」
(『十勝日誌』より)
旧石器時代とは
 
 日本の旧石器時代は、一般には土器の出現以前の時代とされます。現在のところ、日本列島で確実な人類活動の痕跡(遺跡)が見つかるのは、およそ4万年前以降(後期旧石器時代)のことです。この時代は、最終氷期(約8万~1万年前)と呼ばれる寒冷な時期に相当し、とくに2万5000年前頃からは、もっとも寒冷な時期(最寒冷期)に入りました。
 
北海道(十勝)での人類の足跡は、約3万年前からみられるようになり、2万年前以後には多くの遺跡が残されるようになります。
 
最寒冷期の十勝は、年平均気温が現在よりも7~9℃低かったとされています。日高山脈には氷河が発達、平野部はハイマツやグイマツ、エゾマツなどのまばらな林と草原が広がっており、マンモスやステップバイソン、トナカイなど草原性の大・中型動物群の生息に適した環境だったと考えられます。
 この時期に北海道で生活していた人びとは、海水面の低下で陸続きになっていたシベリア方面から渡って来たと推測されます。当時の人びとは定住せず、群れで移動する大・中型動物の狩りをしながら生活していたものと考えられます。

 1万5000年前以降は急激な温暖化が地球規模ですすみ、地形や植生・動物相に大きな変化をもたらせました。この温暖化を背景に、十勝に土器文化をもった集団が進出し、旧石器時代の終わりを迎えたようです。

最寒冷期の十勝平野
最古の石器群 ~帯広市若葉の森遺跡 

 帯広市若葉の森遺跡から出土した石器群は、今のところ、北海道で最も古いグループのもので、放射性炭素年代測定では約3万年前とされています。
 この石器群は、形の整っていない小型の剥片に簡単な加工が施された石器を特徴としています。

 同じタイプの石器群は、遠軽町白滝、石狩低地帯、渡島半島など道内各地に広がりを見せます。この特徴は、ほぼ同じ年代の本州東北~北陸地方に類例があることから、本州島からの集団によってもたらされた可能性があります。
 若葉の森遺跡の発掘調査では、恵庭a火山灰(約2万年前降下)の下層から9,700点ほどの黒曜石製の石器やこれを作ったときの剥片(カケラ)などが出土しました。石器と同じ地層から見つかった焼土の放射性炭素年代が2万8000~3万2000年前と測定されました。 出土した石器の特徴は、音更川の下流で採集したと思われる握りこぶし大の黒曜石の円礫を打ち割って小型の石器を作っていることです。剥片が接合して元の礫の状態まで復元できたものもあり、当時の石器作りの方法が明らかとなりました。
 この遺跡を残した人たちは、採集した黒曜石の原石をそのまま遺跡に持ち込んで、石器作りをしていたのです。


 最古の石器(帯広市若葉の森)
マンモスがいたころ

◆石刃・礫器・顔料
~帯広市川西C遺跡

 帯広市川西C遺跡からは、およそ2万5000年前の石器群が出土しました。当時は最終氷期のなかでも、とくに寒さの厳しい時期に相当します。調査では12ヵ所の石器が集中した地点(スポット)が確認され、この中央に火を焚いたあとが残されたスポットもありました。
 出土した石器は、石刃(せきじん)と呼ばれる形の整った縦長の剥片を指標とする石器群です。この遺跡では1本の石刃を折って削器や彫器など複数の石器を製作する特徴がみられます。遺跡内では石刃を製作した痕跡が見られないことから、他の場所から石刃を持ち込み、ここで分割して石器を作っていたものと思われます。
 礫器(れっき)と呼ばれる礫の一端を打ち欠いて刃部とした石器がまとまって出土したのも特徴です。これは砂岩やアプライトなどの河原石を持ち込んで作られており、重さ600gの小型品から2㎏を超す大型品まであります。この石器は動物の骨など固いものを叩き割るために使われたのではないかと推測しています。
 このほかに、肉眼で赤色や黒色と認識できる顔料の素が多量に出土しました。赤色顔料が付着した礫もあります。原料は鉄やマンガンを含む鉱物で、平らな石の上ですりつぶして顔料にしたものと考えられます。
 この遺跡を残した人たちは、出土した遺物の特徴から北方地域に系譜が求められるようです。
 
     
     左:「礫器」、右:「顔料の素」(川西C遺跡)


◆細石刃石器群~帯広市暁遺跡
 帯広市暁遺跡は、多量の細石刃(さいせきじん)やこれの製作に関連する石器が多く出土することで、全国的にも著名な遺跡です。
 細石刃は、幅数㎜~1㎝前後の細長いカミソリの刃のような石器で、これを複数、骨などで作った軸の側縁に埋め込んで槍などに使われました。この石器は刃こぼれが生じても、その部分だけを新しい細石刃に取り替えて使うことができるという、たいへん効率的な道具でした。起源はシベリア方面に求められるようで、およそ2万4000年前に北海道に出現し、2万年前以降には道内各地で細石刃を出土する遺跡が急増します。さらに、この数千年後には本州へ波及したようです。
 なお、細石刃を出土する遺跡・地点は道内で約300、十勝では46ヵ所が確認されています。
 暁遺跡の細石刃は、幅が8㎜~12㎜前後の幅広タイプと5㎜前後の細身のタイプがあり、前者のほとんどは帯広から直線距離で100㎞以上も離れた、遠軽町白滝から産出する黒曜石を素材としています。
なお、次の時期に現れる大型の両面調整石器も多くは白滝産の黒曜石が用いられています。白滝産地の黒曜石は良質で量も豊富です。このため、旧石器時代には道内はもとよりサハリンの遺跡まで運ばれていました。このことは、製作する石器に合わせて石材の産地が選定されていることや、石材の広域流通ネットワークの確立がうかがわれます。


 石刃石器群(帯広市川西C遺跡)
 
 細石刃石器群(帯広市暁遺跡)
旧石器時代の終末 

 およそ1万5000年前以降、両面に丁寧な加工を施して作られた小・中型の石槍や、刃部を磨いて作られた石斧が出土するようになります。このような石器群出現の背景には、1万5000年前頃に始まった、気候の急激な温暖化の進行があったようです。この気候変動は森林が拡大し草原が減少するなど植物相に大きな変化をもたらし、これに伴った草原性の大・中型動物の減少や絶滅、シカ属(エゾシカなど)の分布域が拡大したことが想定されています。
 この直後、およそ1万4000年前に本州方面から土器文化を携えた人びとが大正遺跡までやってきたようです。
 なお、温暖化に伴う海水面の上昇により、約8万年前以降陸橋によってつながっていたサハリンとの間には、宗谷海峡が成立し、1万3000年前頃には北海道は大陸と切り離され、島になったとされています。
 
終末期の石器群
(帯広市稲田1遺跡)
縄文時代とは 

 縄文時代とは、ほぼ日本列島の全域で繰り広げられた定住的な狩猟採集の時代と定義されます。
 縄文時代の始まりは、列島で土器文化が始まったおよそ1万6000年前とされていますが、縄文文化の特徴である複数の竪穴式住居による集落での定住生活、弓矢の使用、すり石や石皿を使った植物質食料加工具の利用などが定着するのは1万年ほど前のことです。終末は、水田稲作が開始され、金属器が流通した弥生時代が始まるおよそ2500年前とされています。
 この時代の人びと(縄文人)は、基本的に複数の竪穴式住居で構成された集落に住み、弓矢を使った狩猟を行い、野草や木の実・貝類の採集、漁労活動により生活していました。最近の調査では有用植物の栽培などの証拠も見つかっています。
 1万年以上にわたって続いた縄文時代は、南北に長く、多様な生態系をもつ日本列島にあっては、他地域の文化と連動しながら、その土地の環境にあった生活・文化が繰り広げられていました。
 十勝地域では、約1万4000年前の土器が帯広市大正3遺跡でから発見されていますが、各地で竪穴式住居による集落が営まれ、大量の土器、すり石などの植物質食料加工具が見られるようになるのは、落葉広葉樹が十勝平野にも進出した9000年前頃になってからです。
 縄文時代の遺跡は、十勝の各地におよそ1000ヵ所が確認されており、他の地域と交流・影響しあいながら、この地の自然環境にあわせた生活が営まれていました。

◆十勝平野の縄文土器 縄文土器とは、縄文時代に使われた土器のことです。初期の土器には「縄文」がないのも多く、北海道では縄文時代以降も「縄文」が付けられた土器が使われていました。
 土器の形や文様などの特徴は、年代(時期)によって、広い範囲で連動して一種の流行のように変化を示すことが知られています。考古学では、この変化をもとにおよそ1万年の間続いた縄文時代を大きく6つの時期=草創期(~1万年前)/早期(~7000年前)/前期(~5500年前)/中期(~4000年前)/後期(~3000年前)/晩期)に区分して考えています。また、土器の特徴などを指標として、□□式土器などの「土器型式」が設定され、時期や年代、文化圏を知るものさしとして使用されています。
縄文土器ギャラリーへ

十勝の縄文時代の遺跡
土器の出現 

 近年の考古学的な調査では、1万年前を超える年代の土器が東アジアの各地から発見されています。日本列島で最も古い年代を示す土器は、青森県大平山元遺跡から出土した無文土器で約1万6000年前のものです。道内では大正3遺跡から出土した約1万4000年前の土器が最も古いものです。

◆大正3遺跡 2003(平成15)年に行った発掘調査で出土した土器は、底が丸く中央に乳房状の突起が一つ付けられています。文様は「爪形文」のほか、多様な刺突文などがあります。土器の内側に「おこげ」がついたものがあり、これの放射性炭素年代測定では約1万4000~1万4500年前という値が示されています。
 石器は大小の尖頭器、へら形石器、削器、掻器、錐などがあり、小型の尖頭器(写真上段)は弓矢を使った狩が行われていた可能性を示しています。黒曜石製石器には、十勝のほか、置戸や赤井川産地のものが含まれています。
 大正3遺跡を営んだ集団は、土器の特徴や石器製作の「くせ」などから、本州方面と深いつながりがあったと考えられます。しかし、道内では今のところこの年代に相当する土器は本例が唯一であり、どういう経路をたどって土器文化が十勝までたどり着いたのかは明らかではありません。

◆なぞの4000年 大正3遺跡に土器文化を携えて人がやってきた頃は、それまでの寒冷な気候から、右肩上がりに気温が上昇していた頃に相当します。しかし、1万3000年前ころから、全地球的に急激な「寒の戻り」を迎えました。この土器文化をもって来た人たちは、この寒冷化とともに南のほうへ撤退したのでしょうか?
十勝平野で、次の土器文化(暁式土器)が出現するのはおよそ1万年前のことで、このおよそ4000年間の解明は、今後の課題です。

最古の土器(帯広市大正3遺跡) 

最古の土器に伴う石器群
集落の出現 

 およそ9000年前になると、十勝の各地に数軒の竪穴式住居で構成された集落が営まれるようになります。帯広市郊外にある八千代A遺跡の発掘調査では、当時の住居跡が100軒以上も出土しました。この住居の床面に残された炉跡からは、オニグルミの殻、ミズナラの子葉、キハダやヤマブドウの果実や種子などが見つかり、十勝平野には、現在とほぼ同じような冷温帯性の落葉広葉樹が進出していたことが明らかとなりました。
 調査では、住居跡の内外からたくさん大量の土器や石器をはじめ、装身具や動物形の土製品などが出土しました。八千代A遺跡出土品は、道東地域の縄文時代早期の様相を解明する貴重な資料として、文化庁の「重要考古資料」に選定されました。

◆暁式土器 およそ1万年前以降になると、十勝、釧路、日高東部地域を中心に底が平らな土器が出現します。この土器は帯広市暁遺跡から最初にまとまって出土したことから「暁式土器」と呼ばれています。土器の底に、ホタテ貝のあとが付けられていることも特徴です。「暁式土器」の文化は、土器や石器の特徴などから北方に系譜が求められると考えられ、同じような特徴をもつ土器がサハリンで出土していることが最近確認されました。
 一方、同時期の北海道西南部では底が尖り、表面に貝殻で文様をつけた「貝殻文尖底土器」が分布しており、この土器文化は本州東北方面と強いつながりがあったようです。

八千代A遺跡の住居跡群 

暁式土器(八千代A遺跡)
石刃鏃文化の進出 
 
 およそ8500年前、「石刃鏃」という特殊な矢じり(写真の左上)に特徴をもつ集団が、北海道東北部に出現しました。石刃鏃は中国東北部からロシア極東地域に分布することが知られており、当時同じような環境にあった道東地域へサハリン経由で広がったものと考えられます。
 十勝では、浦幌町共栄B遺跡、帯広市大正3・7遺跡からこの文化集団の集落跡が発掘されています。大正7遺跡の発掘調査では住居跡の内外から1000点を超す石刃やこれを加工して作られた石器が出土しました。
 この遺跡では石核や剥片類も多く出土したことから、石刃製作が盛んに行われていたようです。この遺跡で作られた黒曜石製石器は、十勝産のほかに置戸産地のものが多く使われていました。
 十勝地域は、暁式土器文化以降、石刃鏃文化に至るまでは、北方要素の強い文化圏に含まれていたと考えら、道西南部地域と共通した土器文化に含まれるのは、温暖化が進んだ8000年前以降、土器の表面に縄文がつけられるようになってからのことです。

石刃鏃石器群(大正7遺跡) 
縄文文化の展開 

◆縄文文化の最盛期 およそ7000年前には、年平均気温が現在より2~3℃高かったとされる温暖期のピークを迎えました。この頃は海水面が3m前後上昇し、釧路湿原は太平洋の内湾でした(縄文海進)。当時の十勝は、十勝川の中流域くらいまでが海水と淡水が入り交ざった大河のような状況で、現在の海岸地帯に見られる湖沼はこの名残と考えられます。
 7000~6500年前頃の土器は「綱文式」と呼ばれる丸底のもので、土器を作る粘土に多量の植物繊維を混ぜていることに特徴があります。この土器を伴った墓には、日本列島を含む東アジア一帯に広がっていた特殊な形の耳飾りが副葬されたもの(芽室町小林遺跡)、漆器を副葬したもの(帯広市大正8遺跡)など、他地域との交流を示す遺物が出土する例もあります。
 この温暖期を中心に、遺跡からは「すり石」や「石皿」など植物質の食糧加工用の石器が多量に出土します。北海道では5000年前頃には落とし穴を使ったシカ猟が盛んに行われ、十勝の遺跡からも多数見つかっています。気候は、5000年前頃から冷涼に向かい、平野部ではトドマツ・エゾマツなどの針葉樹とシラカンバ類が増加したとする分析結果が報じられています。

◆縄文時代の終末 およそ3500年前以降、縄文時代の終末頃になると十勝では墓は多く発見されるものの、確実な住居跡の調査例はきわめて少なくなります。それまでは河川近くの高台上に集落が営まれていましたが、この頃から低地に集落が営まれるようになったことを示しているのかもしれません。この傾向は続縄文時代まで続きます。
 2500年前頃、本州以南では「弥生時代」が始まり、1万年以上続いた縄文時代は終わりを告げます。
 
 
すり石と石皿
祭り・祈り・まじない 
 縄文時代に限らず、先史時代の精神文化については、解明されないことが多いのが実情です。しかし、「墓」や「土偶」、「アクセサリー」などから、その心を垣間見ることができます。
◆墓 先史時代には様々な葬法があったと考えられますが、発掘調査で発見されやすいものに、地面に穴を掘って遺体を埋葬した「土壙墓」といわれるものがあります。十勝各地の遺跡からも多く発見されており、中には土器や石器、装身具などが副葬されたものもあります。
◆土製品 粘土を成形して焼いて作られたものを土製品と総称します。なかには人をかたどった土偶、動物をモチーフにした「動物形土製品」などがあります。
◆装身具 現在の私たちの身の回りにある装身具類の祖形は、ほとんど縄文時代には出そろっていたようです。石製や土製の装身具が多く見つかっていますが、これは石が「残りやすい」ことが一因で、木や骨、角、牙などで作られたものもたくさんあったものと考えられます。

左から 土偶(大正8遺跡)/クマの頭部をモチーフした土製品(八千代A遺跡)/早期の装身具(八千代A遺跡)/前期の耳飾り(芽室町小林遺跡)      
 
漆器が副葬された墓
(大正8遺跡)
続縄文時代 

◆続縄文時代とは 続縄文時代とは、紀元前5世紀頃から7世紀前半(おおむね本州の弥生時代から古墳時代に並行)にあたる、おもに北海道の時代区分です。弥生時代(文化)は、水田による稲作農耕と鉄製の道具の使用に特徴付けられ、その始まりは紀元前5世紀ころ(近年の研究では北部九州で紀元前10世紀までさかのぼる)とされています。北海道での考古学的調査では、弥生時代と並行する時期になっても、稲作が行われた証拠は未発見です。金属器の使用もごくわずかで、石器の組み合わせが縄文時代のものと大きく変わりません。生業は、狩猟・漁労・採集を基本とし、西南部でヒエなどの栽培がこれに加わる程度でした。
 続縄文時代は、前半期(おおむね弥生時代に相当)と後半期(おおむね古墳時代に相当)に二分することが可能です。
 前半期は、北海道の東西で異なる土器文化が栄えました。十勝を含む東部地域では縄文晩期後半期の特徴をひく土器が使われ、池田町池田3遺跡では、小型の土器やコハク製装身具などが副葬された墓が出土しています。
 
後半期になると、「後北式」と呼ばれる土器が北海道全域に広がり、さらに宮城県北部や新潟県、千島列島中部からも出土するようになります。この土器を伴う墓が浦幌町十勝太若月遺跡から出土しており、副葬品に本州方面伝来と思われる碧玉製の管玉やガラス玉がありました。
 
終末ころになると、土器の表面からおよそ1万年の間続いた「縄文」が姿を消し、石器に替わって鉄器が徐々に普及しました。
 
後北式土器
(浦幌町十勝太若月遺跡)
擦文時代 

◆擦文時代とは 擦文時代とは、7世紀後半から12~13世紀頃、ほぼ本州の飛鳥時代~平安時代に相当する北海道の時代区分です。「擦文」の呼称は、土器の表面に木片などで擦った痕が見られることに由来し、本州の土師器をまねた技法で製作されています。擦文土器の分布は、時期により違いはあるものの、北海道全域、東北北部、サハリン南部、千島列島南部に広がります。擦文時代になると、竪穴式住居が本州と同じ方形で壁際に炊事用のカマドが設けられるタイプとなります。また、石器に替わって鉄器が普及するなど、さまざまな文化や物資が本州方面から供給されるシステムが確立したものと推測されます。この時代は、河川の流域、湖沼の周辺、海岸部などに大規模な集落が残されることに特徴があります。

◆十勝の擦文時代 十勝では、大樹町から浦幌町にかけての沿岸部、十勝川の河口付近~中流域の段丘上に、まだ埋まりきらずにくぼみとして地表から確認できる竪穴群の存在が知られ、「十勝ホロカヤントー竪穴群」(大樹町)、「十勝太遺跡群」(浦幌町)などは北海道の史跡に指定されています。
 
擦文時代の生業は、続縄文までの狩猟・漁労・採集を基盤としたものに、農耕の要素が加わったものとされます。十勝では、浦幌町十勝太若月遺跡の住居跡から、炭化したオオムギ・キビ・シソが出土しており、周辺でこれらの作物が栽培されていたものと考えられます。この遺跡や周辺からはフイゴの羽口や紡錘車が出土しています。前者は鍛冶の時に使う送風装置の部品、後者は糸をつむぐ道具です。
 12~13世紀頃には、土器文化が終わり、竪穴式住居が姿を消すようになり、擦文時代は終末を迎え、アイヌ文化期へと移行します。この変遷は連続したもので、両文化の担い手は同一であると考えられています。
 
 
擦文土器のセット

鉄関連遺物
※いずれも浦幌町立博物館蔵
アイヌ文化期

◆アイヌ文化期とは 考古学では、北海道で1万年以上も続いた土器作りが行われなくなった12世紀~13世紀頃をもって擦文文化の終末とし、アイヌ文化期の始まりと考えています。この移行の様相は十分には解明されてはいませんが、鉄器・漆器など大量の物資が安定して本州方面から供給され、北海道を含む北方の産物が本州方面へ移出されるようになったことが、引き金になったものと考えられます。土器が消滅した頃には、住居は竪穴式から平地式に変わりました。中世~近世初期のアイヌ文化は、石狩低地帯から渡島半島にかけての地域では遺跡の発見・調査例が増えてきましたが、道東部の様相はほとんど不明です。なお、「初期(中世)アイヌ文化」の内容と、私たちがよく知る18世紀以降の和人の記録による「近世アイヌ文化」とは大きく異なっているようです。 

◆チャシ アイヌ文化期の遺跡には「チャシ跡」があります。これは海岸や河川沿いの台地の先端や崖の上、山頂などに立地し、壕を巡らせて一定の空間が作られたものです。十勝では70ヵ所が確認され、多くは十勝川の中流域~河口付近、利別川流域に残されています。発掘調査によって、ある程度の状況がわかるのは、国指定史跡の陸別町ユクエピラチャシ跡遺跡が十勝では唯一です。
 ユクエピラチャシは、16世紀半ばには使われていたことが明らかで、利別川に面した崖上に立地し、3つの弧状の壕をもち、長軸120mを測る大規模なものです。壕を掘り上げたときに出た白い火山灰が盛られていることが特徴で、作られた当時は「白いチャシ」だったと考えられます。発掘調査は史跡整備を目的とした部分的なものですが、エゾシカの骨や角が大量に出土し、冬季に狩られたエゾシカの遺体が繰り返しチャシに持ち込まれていたことが明らかとされました。ほかに銭貨、陶磁器、ガラス玉、銅や鉄製品など、おもに本州方面からの移入品と思われる遺物が出土しました。
 
十勝のチャシ分布
資料  紹介した遺跡のデータです。 【⇒】は出土品が収蔵・展示されている施設です。

浦幌町下頃辺遺跡 【⇒浦幌町立博物館】
 浦幌町吉野に所在する縄文時代早期の遺跡。1959年、東京大学アイヌ学術調査団によって発見、同年の学術調査で、当時北海道最古とされた土器が出土、「下頃辺式」と命名された。

帯広市暁遺跡 【⇒帯広百年記念館/同埋蔵文化財センター】
 帯広市西8・9条南12・13丁目に所在する旧石器時代細石刃文化と縄文時代早期「暁式土器」期の遺跡。1989年までに通算6次の調査が行われ、旧石器時代では細石刃文化期の石器集中22ヵ所が調査された。縄文時代では「暁式土器」を伴う住居跡・土坑・墓で構成された集落が出土した(帯広市指定文化財)。

帯広市若葉の森遺跡 【⇒帯広百年記念館埋蔵文化財センター】
 帯広市西17
条南6丁目に所在する旧石器時代・縄文前・中期の遺跡。2002・03年に発掘調査が行われ、石器集中4カ所から約3万年の石器類が出土。ほかに縄文前期~中期の遺物がある。

帯広市川西C遺跡 【⇒帯広百年記念館埋蔵文化財センター】
 帯広市西14条南40丁目付近に所在。1996~2000の調査で、約2万5千年前の石刃石器群や顔料が出土。縄文時代は早期~後期の遺構・遺物が出土。

帯広市稲田1遺跡 【⇒帯広百年記念館埋蔵文化財センター】
 帯広市稲田町西1
線に所在。1995~96年の調査で、旧石器時代終末頃の有舌尖頭器石器群、縄文時代の落とし穴などが出土。

陸別町斗満遺跡 【⇒陸別町教育委員会蔵】
 陸別町斗満南4線に所在する旧石器時代の遺跡。1973年、農道工事中に大型の石器がまとまって出土した。

帯広市大正遺跡群 【⇒帯広百年記念館/同埋蔵文化財センター】
 帯広市大正町の途別川左岸に分布する大正1~8遺跡。2002~04年発掘調査。縄文時代草創期(大正3)や、早期石刃鏃文化期(大正3・7)など、縄文時代前半期の遺構行・遺物が大量に出土した。

帯広市八千代A遺跡 【⇒帯広百年記念館/同埋蔵文化財センター】
 帯広市八千代町
に所在する早期「暁式土器」期の集落遺跡。1985~88年の発掘調査で住居跡103軒とおよそ9万点の遺物が出土(帯広市指定文化財)。

浦幌町共栄B遺跡 【⇒浦幌町立博物館蔵】
 浦幌町吉野に所在する縄文早期石刃鏃文化期の遺跡。1975年の発掘調査ではこの時期の住居跡などが出土した。

芽室町小林遺跡 【⇒芽室町ふるさと歴史館ねんりん】
 芽室町東10条10丁目に所在する縄文時代の遺跡。発掘調査は2000年までに6次にわたって実施。前期「綱文式土器」期の墓が多数調査され、玦状耳飾や土偶などが出土。

幕別町札内N遺跡 【⇒幕別町ふるさと館】
 幕別町依田に所在する旧石器時代~縄文時代の遺跡。1993~98年の発掘調査で、旧石器時代は恵庭火山灰下層の石器群と終末頃の有舌尖頭器石器群が出土。縄文晩期では141基の墓が出土し、土偶をはじめ豊富な副葬品をもつものが多数出土した。

池田町池田3遺跡 【⇒池田町教育委員会】
 池田町西3条に所在する縄文時代早期~擦文時代の遺跡。1992・93年の調査で、縄文早期「暁式土器」の集落、後期の土製品、続縄文前半期の墓、擦文時代の住居跡が出土(池田町教育委員会蔵)。

浦幌町十勝太若月遺跡 【⇒浦幌町立博物館】
 浦幌町
下浦幌に所在する続縄文~擦文時代を主体とする遺跡。擦文期の焼失住居から、炭化したオオムギ・キビ・シソが出土したことで、当地での作物栽培が明らかとなった。

陸別町ユクエピラチャシ跡遺跡  【⇒陸別町教育委員会】
 陸別町字トマム所在のアイヌ文化期のチャシ。1987年国史跡に指定。2002~06年の史跡整備のための発掘調査が実施された。