十勝とアイヌの人たち
アイヌの人たちは北海道をはじめ、サハリン(昔、樺太〔からふと〕といっていた北海道の北にある島)、千島列島、本州の東北地方を中心に、豊かな自然のなかで動物や魚をとったり、多くの植物を利用したりしながら生活してきました。十勝でも十勝川やその支流、歴舟川などの川にそってたくさんのコタン(アイヌ語で「村」の意味)がありました。
15世紀ころから蝦夷地(当時の北海道)に住む和人(本州などに住む人たち)が多くなるにつれ、アイヌの人たちと和人との間でいろいろな問題が起こり、コシャマインの戦い(1457年)やシャクシャインの戦い(1669年)、クナシリ・メナシの戦い(1789年)などに発展しました。そして、アイヌの人たちは松前藩や和人の商人たちによる社会に組み込まれていくようになり、その生活はとても苦しいものになりました。地域によっては奴隷(どれい)のように働かせられたり、和人が持ち込んだ伝染病の流行などによって人口が激減したりしたところもありました。
明治に入ると蝦夷地は北海道と名称が変わり、明治政府の植民地政策によって本州などからたくさんの人々が入ってきて開拓を進めました。このため、アイヌの人たちが伝統的生活を営める場所やその文化も失われていきました。
こうしたなか、十勝では1885(明治18)年にアイヌの人たちに農業を行わせるため、帯広の伏古や音更など12ヵ所に集めて農業指導が行われましたが、うまくいきませんでした。
その後、1899(明治32)年に北海道旧土人保護法が成立するなかで、日本人となるための教育によって同化政策が進められると、ますます生活は苦しくなるとともに、いわれのない差別を受けるようになりました。
このようにアイヌ民族の伝統的な生活や文化がこわされ、差別に苦しむなかで、アイヌ民族自立への運動や文化の復興に努力する人々もあらわれました。十勝では帯広の伏根弘三氏や幕別の吉田菊太郎氏などが活躍しました。さらに1927(昭和2)年、「北海道アイヌ協会」の前身である「十勝旭明社」が帯広で誕生し、現在のアイヌ民族のさまざまな活動の基礎を築いていきました。
文化の伝承では、帯広で1950年代に「十勝アイヌウポポ愛好会」がつくられ、1964(昭和39)年には「帯広カムイトウウポポ保存会」になってアイヌ民族の伝統的な歌や踊りを伝えていく活動がさかんになり、現在では保存会の活動をはじめ、帯広アイヌ語教室や伝承教室など文化の伝承、保存活動が活発に行われています。また、1997(平成9)年に「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が作られると、十勝の各地でも文化活動がさかんに行われるようになりました。
十勝アイヌ年表
十勝のアイヌ関係主要年表(近世以降)
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1643年 寛永20年
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オランダの探検船カストリクム号の日誌に十勝アイヌとの出会いが記録される。
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1644年 正保 1年
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松前藩が幕府に日本総国図の資料地図を献上。この中に「とかち、えぞ有り」の記述がある。なお、この地図の調査は1635(寛永12)年に行われた。
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寛文年間
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このころすでに十勝が松前藩家老蠣崎藏人の知行所となり、広尾に根拠地が置かれる。
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1669年 寛文 9年
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シャクシャインの戦い。十勝アイヌも呼応し戦いに参加。
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1721年 享保 6年
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名古屋吉十郎の船が十勝に漂流し、十勝アイヌに助けられる。
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1770年 明和 7年
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十勝と沙流のアイヌが抗争。
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1789年 寛政 1年
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クナシリ・メナシの戦い。
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1800年 寛政12年
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当時、勇拂に移住していた八王子同心の皆川周太夫が、幕命により十勝川筋を調査。記録の中に十勝川筋のアイヌの居住状態を残す。
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1808年 文化 5年
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「戸勝場所大概書」に十勝場所内のアイヌの居住状況と場所における生活の様子が記録される。
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1845年 弘化 2年
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松浦武四郎、十勝の海岸沿いを通過。アイヌの居住状況を記録。
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1856年 安政 3年
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松浦武四郎、幕命を受け蝦夷地および樺太の調査を行う。この時、十勝の海岸沿いを通過し、おもに地名と十勝川内陸部の状況を記録に残す。
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1858年 安政 5年
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松浦武四郎、再び幕命を受け東蝦夷地の調査を行う。この時は十勝川筋を二度調査し、十勝アイヌの生活を比較的詳しく日記類に記録する。
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1871年 明治 4年
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戸籍法制定。その後アイヌは平民に編入される。
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1874年 明治 7年
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ライマン、音更川・十勝川筋を踏査。
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1875年 明治 8年
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十勝漁業組合が組織される。十勝漁場の経営を行う(明治13年解散)。
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1876年 明治 9年
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開拓使判官松本十郎、十勝川上流より大津に下り、十勝アイヌについて記録を残す。
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1880年 明治13年
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鮭苗保護のため十勝・大津川上流域の本支流がサケの禁漁区となる。御用会社である「広業商会」が十勝アイヌの生産物を委託販売する。
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1885年 明治18年
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伏古村伏古別に土人開墾事務所が開設される。十勝川と利別川沿いの12カ所に近郊のアイヌ集落を集め、営農指導がおこなわれる。
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1890年 明治23年
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A.S.ランドー十勝を訪れ、アイヌの様子を記録に残す。
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1899年 明治32年
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「北海道旧土人保護法」制定。
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1904年 明治37年
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アイヌ子弟の教育を目的とした庁立第二伏古尋常小学校開設。(大正8年、庁立日新尋常小学校と改称。昭和6年廃校)
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1906年 明治39年
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アイヌ子弟の教育を目的とした庁立音更尋常小学校開設(昭和6年廃校)。同じく庁立芽室太尋常小学校開設(大正10年廃校)。
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1911年 明治44年
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幕別で「旧土人開墾組合」設立(大正9年解散)。
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1923年 大正12年
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保護法により給与された土地の管理・指導のため、「帯広町伏古相互組合」が設立される。この後、音更、芽室、池田、本別、士幌、幕別でも組合が設立される。
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1925年 大正14年
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日新会館開設(帯広)。
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1927年 昭和 2年
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十勝アイヌの文化・経済の指導及び向上を図るため、「十勝旭明社」が設立される。
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1930年 昭和 5年
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「北海道アイヌ協会」によって雑誌『蝦夷の光』が創刊される。
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1946年 昭和21年
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「社団法人 北海道アイヌ協会」設立。
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1957年 昭和32年
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このころ「十勝アイヌウポポ愛好会」が設立される。
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1959年 昭和34年
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吉田菊太郎(幕別町)が蝦夷文化考古館を開設。
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1961年 昭和36年
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(社)北海道アイヌ協会から(社)北海道ウタリ協会と名称を変更。
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1964年 昭和39年
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「十勝アイヌウポポ愛好会」を発展解消し「帯広カムイトウウポポ保存会」が設立される。
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1976年 昭和51年
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「北海道ウタリ協会十勝地区支部連合会」設立。
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1982年 昭和57年
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「帯広カムイトウウポポ保存会」が帯広市指定無形文化財となる。
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1984年 昭和59年
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アイヌ古式舞踊が国の重要無形民俗文化財に指定され、「帯広カムイトウウポポ保存会」を含む各地の保存会が保護団体として登録される。「上士幌町ウタリ文化伝承保存会」設立。「マクウンベツアイヌ文化保存会」設立(幕別町)。ウタリ協会が「北海道旧土人保護法」にかわる「アイヌ民族に関する法律(案)」を提案。
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1990年 平成 2年
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アイヌ民族への支援ボランティア組織「とかちエテケカンパの会」発足。
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1993年 平成 5年
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国際先住民年。帯広でアイヌ語教室開講。帯広で「第5回アイヌ民族文化祭」開催。
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1995年 平成 7年
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帯広市が「帯広市ウタリ総合福祉推進計画」を策定。
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1996年 平成 8年
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「ウタリ対策のあり方に関する有識者懇談会」より答申が出て、アイヌ新法の方針ができあがる。
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1997年 平成 9年
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二風谷ダム訴訟で司法がアイヌ民族の先住性を認定。「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が公布、施行される。同時に「北海道旧土人保護法」が廃止。
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1998年 平成10年
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帯広市生活館移転改築。
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1999年 平成11年
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帯広で「アイヌの四季と生活 ~絵師・平沢屏山と十勝アイヌ~」展が開催。
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2007年 平成19年
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国連が「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択。
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2008年 平成20年
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国会で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択される。
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2009年 平成21年
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(社)北海道ウタリ協会から(公社)北海道アイヌ協会に名称変更。ユネスト世界無形文化遺産リストに重要無形民俗文化財「アイヌ古式舞踊」が登録される。帯広で「アイヌの美〜カムイと創造する世界〜」展が開催。
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2014年 平成26年
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帯広で企画展「アイヌの工芸 -東北のコレクションを中心に」が開催。
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2019年 平成31・令和元年
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「アイヌの人々の誇りが尊重された社会を実現するための施策の推進に関する法律」が公布される。「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」は廃止。